みなさん、こんにちは。「ちょっと素敵な人生」運営兼ライターのかっつんです。
今日は私が長年にわたってファンでもある、日本の伝説的ロックバンド『Godiego(ゴダイゴ)』について、その3です。
人気はピークに
1978年10月にリリースされたシングル『ガンダーラ』とアルバム『西遊記』のヒットでゴダイゴを一躍人気グループとなり、それは1979年に入っても続きます。この年はユニセフが制定した国際児童年にあたり、そのキャンペーン・ソングとして彼らの『ビューティフル・ネーム』がNHKを通じて1年間放映されることとなり、またシングルが4月にリリースされこちらも大ヒット。当時全盛期であったテレビの『ザ・ベストテン』において、『ガンダーラ』と『モンキー・マジック』が同時にチャート・インするなど、彼らの人気はピークに達します。
当時のミュージシャンの多くは、ライブとアルバムの制作に活動の重きを置き、あまり音楽番組に出演することはなかった中で、どちらかといえば積極的にテレビ出演をしていた彼らは、ある面で特異な存在でした。これはミッキーの“自分たちの音楽をいろいろなかたちでばら撒いていく”という意向が強く影響していたと思います。事実、5月にはタケカワのソロデビューアルバム『走り去るロマン』が再リリースされ、シングルカットされた『ハピネス』もビールのCMソングに採用されたこともあってヒット、先日の「ザ・ベストテン」にも一人で出演しています。
続く、6月には「西遊記」に続く5枚目のアルバム『OUR DECADE』をリリースします。極め付けは、7月にリリースされた『銀河鉄道999』でしょう。これは当時人気があったTVアニメの映画版テーマ・ソング。こちらは現在でも「ガンダーラ」「モンキー・マジック」と並ぶ彼らの代表作となりました。これらの作品は、後に数多くのアーティストたちによってもカバーされいずれもヒットしています。
1979年のゴダイゴ人気はまだまだ続きます。10月にはテレビで「西遊記パート2」が放送され、もちろんこの作品でも音楽をゴダイゴが担当。新しいエンディング・テーマ『ホーリー&ブライト』がリリースされ、同じ月には初のライブアルバム『マジック・カプセル』をリリース。このアルバムは2枚組でそれまでのベストアルバムかつ同時に公開された彼ら自身のドキュメンタリー映画のサウンド・トラックでもありました。この作品はオリコンチャートでも1位になりました。このように1979年の音楽シーンの中心はゴダイゴであったと言っても過言ではありません。事実、1979年のアルバムセールスで『西遊記』が堂々の1位に輝いています。また、年末の紅白歌合戦にも出演しその年の活動を締め括りました。
世界進出と転換期
年が明けて1980年に入ると、グループの視線は再び世界へと向けられます。そのひとつに2月にネパールの首都カトマンズで行われたライブがあります。ネパール政府の招待から開催が決定したこのライブはネパール王立競技場で行われ、集まった観客はなんと6万人! 当日はカトマンズ市内の若者たちの多くがこのライブに足を運んだため、官庁や銀行が臨時休業になったんだとか。ネパールでのライブ以降は、アフリカのタンザニアやギリシャなどを訪問。一時帰国した後、3月後半からはインドやトルコを訪問し、ここでは現地のアーティストたちと交流を図っています。
さて、この時期にグループとしては2度目の転換期を迎えます。それはグループ結成前からミッキーと行動を共にしゴダイゴの生みの親のひとりとも言える、スティーブ・フォックスが宣教師になるためグループから離れることになったのです。彼はゴダイゴの結成当初からクリスチャンでありデビュー後はファンの人たち向けにクラクトというパンフレットをファンに向けて配布する活動も行っていました。ただ一方で、人気がピークに達していた時期は、テレビ出演も多かったため、その顔が良くも悪くも多くの人に知られることになり、一部の行き過ぎたファンが彼の自宅近くに押しかけるようなことがあり、そのような出来事は、とりわけ彼の家族を悩ませていたようです。
スティーブ自身は音楽活動とクリスチャンとしての行動に自信を持っていたようですが、とくに彼の奥様には夫が人気者のロックスターであることは、必ずしも歓迎できることではなかったようでした。グループが海外で活動している最中、スティーブ夫妻は立ち寄ったニューヨークで有名な牧師に当時の状況について相談をします。ここで牧師からスティーブに提言されたことは『グループを辞めること』でした。彼は悩みに悩んだ末、自分の家族と過ごすことを最優先することを決意しミッキーにそのことを告げ、ミッキーも彼の決断を受け入れました。
インターミッション
ミッキーはとある音楽雑誌の取材で“スティーブが抜けた時点でゴダイゴは終わった”という趣旨の発言していますが、人気があったゴダイゴがそんな簡単に終止符を打つことはできませんでした。ただ、実際はグループとしての人気もアルバムセールスも徐々に勢いを失っていきます。ライブは一時的にサポートメンバーを起用していましたが、スティーブの後任として選ばれたのは、1980年の4月に公開されタケカワユキヒデが音楽監督をたんとしていたミュージカル『ヘアー』にギタリストとして参加していた吉澤洋治でした。当時も決して優秀なベーシストがいなかったわけではないでしょうが、ミッキーの中ではベーシストはスティーブ以外にありえなかったかもしれません。
新メンバーを迎え入れたゴダイゴは活動の主体をアルバム制作やライブ、映画音楽制作の活動へシフトしていきます。1980年の10月初めにはアメリカのLAで開催された市制200周年記念イベント「ストリート・シーン」への出演、同月後半には中国・天津で開催された「第1回日中友好音楽祭」へ出演しています。この中国での模様はTVで同時中継され、日本ではテレビ東京で『中国にロックが入った日』というタイトルで放送されたほか、『中国 后醍醐』というタイトルでライブ・アルバムがリリースされています。1981年に入るとテーマソングを担当していた神戸での都市博「ポートピア’81」で3月の開催に合わせてライブを行いました。
1982年以降はメンバーによるソロ活動も増えました。ボーカリストのタケカワはギタリストの浅野と、ミッキーはトミー、吉澤と活動を共にすることが多くなりました。グループとしてのアルバムは1981年9月に『M.O.R』、1984年の1月に『Flower』がリリースされましたが、いずれもセールス的には全盛期にはとても及ばないものになっていきました。グループとしての活動もアルバムリリース時にはプロモーションを兼ねたライブ活動やごくわずかなTV出演もありましたが、やはりその勢いは明らかに失っていたように思います。
1984年の11月にアルバム『ONE DIMENSION MAN』をリリース、結果的にこれがグループとしては最後のオリジナルアルバムになり、翌1985年になって『ゴダイゴ・ファイナルツアー』の実施とともに正式にグループの活動休止を発表します。
その4に続きます。
今日は、日本の伝説的ロックバンド『Godiego(ゴダイゴ)』の人気絶頂期から活動休止までの経緯でした。今日は最後までお読みいただき、ありがとうございます。
では、次回の記事をお楽しみに!
今日もみなさまの人生が素敵でありますように!
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