みなさん、こんにちは。「ちょっと素敵な人生」運営兼ライターのかっつんです。
今日は私が長年にわたってファンでもある、日本の伝説的ロックバンド『Godiego(ゴダイゴ)』について書きます。この記事は2回に分けて書きます。その1回目です。
ボストンの田舎町で
ゴダイゴの結成は1975年。つまり来年で結成50周年を迎えます。
バンドの結成に至るまでは、さらに少し年数を遡ります。
そもそも、ゴダイゴはバンドのリーダー、ミッキー吉野のアイデアが基になっています。彼は60年代に日本の音楽シーンを席巻していたグループサウンズで、人気グループのひとつとして数えられる『ゴールデン・カップス』にわずか16歳で参加します。その後、グループ脱退後の1971年にアメリカのバークリー音楽大学へ留学。それを追うようにして同じくバークリーに入学するのがゴダイゴのベーシストであるスティーブ・フォックス。二人はミッキーがゴールデンカップスで活動する以前から面識のある旧友でもあり、当時家庭の事情でアメリカのテキサスにいたスティーブをミッキーが誘ったのでした。
そして、二人はバークリーのあるボストンを拠点にローカルバンドとして活動します(この頃、のちにメンバーになるトミー・スナイダーとも出逢っています)。
ある日、とあるライブに向かうクルマの中で、ミッキーはスティーブに東京を拠点として活動するグループ結成のアイデアを打ち明けます。そのグループ名『ゴダイゴ』とともに。
バークリーには、音楽を学ぶために世界中から若者が集まっています。ミッキーには、そんな仲間ともにグループ結成のオファーもあったといいます。しかし、当時の彼はアメリカ音楽界に魅力を感じず「それなら東京を拠点とした世界的バンドを作ろう!」という思いもあったそうです。
ちなみにゴダイゴをアルファベットで書くと本来は『Godaigo』ですが、それを『Godiego』にというアイデアはスティーブによるものです。
|
ボストン時代のミッキーを知るには『ミッキー吉野の人生の友だち』がオススメです。
英語のアルバムを作りたい
一方、日本ではある若いアーティストがソロデビューのためにアルバム制作中でした。その名は『タケカワユキヒデ』。彼は、音楽出版社(レコードの原盤を制作する会社)に在籍するジョニー野村に見出され、プロのアーティストとしての活動をスタートしたばかりでした。デビューアルバムは全曲英語詩という画期的なものでしたが、アルバムの制作ではアレンジやスタジオミュージシャンとのやりとりで行き詰まっていたのです。彼はスタジオミュージシャンと呼ばれる人たちと仕事をするのが初めてで、彼のアレンジとスタジオミュージシャンがうまく噛み合いませんでした。スタジオミュージシャンをうまくまとめられたり、あるいはその人たちにあうアレンジのできる人材が必要な状況でした。
アルバムをプロデュースしていたジョニー野村がタケカワに言います。
「実は打ってつけの人がいる。彼はもうすぐアメリカから帰ってくる予定ですぐに連絡がくるはずだから。ミッキー吉野って知ってる?」
数日後にミッキーからジョニーへ連絡があり、合うこととなりこれにタケカワも同行します。ここでミッキーはジョニーへ新しいグループの構想を打ち明けます。グループ名は秘密だからと最初は内緒にしていましたが、最後には意を決したように『ゴダイゴ』と打ち明けます。この時のタケカワと言えば、本人はのちに自分がそのメンバーになるとはこの時点では全く考えておらず、「この人は本当にアルバムの制作を手伝ってくれるのだろうか?」という心配をしていただけでした。
ミッキーがアレンジで協力し全曲英語詩で構成されたタケカワユキヒデのデビューアルバム『走り去るロマン』は1975年1月にリリース(写真は1979年5月の再リリース版)。
いよいよ始まる
ミッキーはいよいよ新しいグループに向けて、活動を開始します。ベーシストは当然スティーブ・フォックス。ギタリストには、ある人物を考えていました。
『浅野孝己』。彼もまた、16歳の頃からプロとしての活動を始めた早熟ギタリストで、当時の日本では数人しかいなかったというブルースギターのプレイを他のプロのミュージシャンが観にくるというほどのテクニックの持ち主でした。ミッキーやスティーブもまた、Mというバンドで活動中の浅野氏のプレイを観ています。ただ、この時は浅野氏本人のさまざま都合があり、すぐに合流とはなりませんでした。
ミッキーとスティーブは旧知のメンバーで『ミッキー吉野グループ』を結成し沢田研二のバックバンドやテレビ番組の音楽担当などの活動しつつ、ゴダイゴの具現化を探ります。
一方、タケカワは無事にデビューアルバムをリリースし合わせてCM音楽の制作なども行うようになりました。そして、タケカワのライブでは『ミッキー吉野グループ』がバックバンドを担当しています。当初は別のギタリストが在籍していた『ミッキー吉野グループ』はタケカワ氏の渋谷公会堂のライブで浅野がグループに合流します。浅野はタケカワのレパートリー20曲を1回のリハーサルでマスターするという、離れ業を披露しています。
『ミッキー吉野グループ』は少しずつミッキー本人の理想とするメンバーが集まっていったものの、肝心のボーカリストが定まっていませんでした。一方、タケカワ氏も念願の全曲英語詩によるアルバムを発表したものの、この頃の日本はどちらかといえばフォークミュージックが全盛の時代もあって決してメジャーなストリームに乗ったわけではありません。
1975年の12月、ミッキーはタケカワ氏に『一緒にやらないか?』と提案します。タケカワのポップセンスやいずれ世界進出を目指すという点でも、英語の曲が歌えるシンガーは打って付けでした。タケカワも自身の置かれた状況を打開したいとの思いもあり、ミッキーの提案に納得します。この瞬間、ミッキーやスティーブがボストン時代から描いていたグループ、ゴダイゴが誕生します。そのメンバーはリーダーとキーボードがミッキー吉野、ギタリスト、ベーシストがそれぞれ浅野孝己、スティーブ・フォックス、ドラムスはギタリスト浅野氏の弟である浅野良治、そしてボーカリストがタケカワユキヒデというラインナップ。制作中だったタケカワの2枚目のアルバムは急遽、ゴダイゴのデビューアルバムと形を変えて進み始めます。
1976年7月にリリースされたゴダイゴのデビューアルバム『新創世記』。トラックNo.1〜4は、映画『青春の殺人者』(監督・長谷川和彦、主演・水谷豊)にも使われています。
その2に続きます。
今日は、日本の伝説的ロックバンド『Godiego(ゴダイゴ)』結成からデビューまでの経緯でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
では、次回の記事をお楽しみに!
今日もみなさまの人生が素敵でありますように!
この記事に関するお問い合わせやご質問、ご指摘などがありましたら下記フォームへご入力の上、送信してください。
なお、内容によってはご返答までお時間をいただく場合がございます。
あらかじめご了承のほど、よろしくお願い致します。